田無の田んぼ

西東京市の「田無」の地名は、そこは水利の不便な武蔵野台地上にあって田んぼがないから「田無」なのだ、と一般に言われています。
「田無市史」(合併して西東京市になる前の1995年に発行)においても次のように書かれています。

田無の語源については様々な説があるが、定説は得られていない。文字通りこの地域一帯が「田のない」ところであり、その核心地域として「田無」の名称が残ったと考えるのが、もっとも一般的な解釈であろう。

今回は、地図を眺めることで、田無に田んぼがはたしてあったのかなかったのか?そして今はどうか?を確認してみます。

古い地図を眺めてみます

今回の確認作業で使った一番古い地図は、明治6年(1873)の田無町(当時)南部の「地引絵図」になります。

「地引絵図」田無町南部(明治6年) 緑の枠内に黄緑色で「田」が表示されている

これを見ると、武蔵野台地を削って流れる石神井川沿いに、所々に「田」の表示が色分けで示されています。

もう一つ、明治39年(1906)の地形図を見ると、やはり石神井川沿いに田の記号が並んでいます。

明治39年 1/20000「田無」 水田の記号部分を緑色に着色

川沿いですので水利は容易に確保できるでしょうから田んぼがあるのはごく自然なことでしょう。
それもこの時期だけでなく、戦国時代よりも前の古い時代からあったことは間違いないと思います。
米作が可能な土地であれば、とにかく田として利用するというのが古代、中世の土地利用の基本であったのでしょうから。

「田無には田んぼがない」ということへの反例がすぐ見つかりました。
ただし、2つの地図を念入りに調べてみると、田んぼがあるのはこの石神井川流域だけであってそれ以外の田無にはありません。
田無には石神井川以外に川は流れていませんので、それは当然かもしれません。
明治39年の地図では土地利用が地図記号によって示されていますが、田の記号の付いた石神井川沿いの一部エリア以外の土地は、(無地部分)、桑畑針葉樹(スギ等)、広葉樹(コナラ等)で覆われています。

古文書において「田無」の地名が記載された最も古い史料は、永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」です。ただ、この時代の田無の中心は今の青梅街道沿いではなく、石神井川から北へ約2km離れた現在西武池袋線が走っている谷戸と言われる辺りで、水田耕作のために水を得るには少々不便な所でありました。

田無市史ではこの点を踏まえて、「その核心地域として田無の名称が残った」と記述されていると思われます。

ちなみに、石神井川からちょっと北へ離れたところに青梅街道が通っており、江戸期の初めに青梅街道の両側に田無用水を引いて田無宿を作りました。
地形図では標高差をはっきり読み取ることができませんが、青梅街道は石神井川から7~8mぐらい標高が高いため、街道沿いでは水を得るのが困難でした。ですから、現在の小平市域から玉川上水の水を引いてきて(=田無用水)宿場機能を果たすためのインフラにしていました。

現在の地図を眺めてみます

上の明治39年の地図と同じ範囲の現在の地図を見ると、次のようになっています。

現在の石神井川の流域(地理院地図)

鉄道が通り、人口が増え、都市化が進んで、石神井川流域においても川際まで民家が密集する状態になり、田んぼどころではありません。

石神井川の両岸にびっしり立ち並ぶ住宅

この地図に示された範囲からは「田」の記号は消え去りました。本当に「田無」になってしまいました。

西東京市による農業関係の報告書においても、経営耕地面積としての「田」の耕地面積は西東京市全体で「0」と表示され、解説文においても「西東京市には水田はありません」と明記されています。

ただ、もと田んぼであった場所は湿気が多いとか大雨が降った時に水が出やすいとかの性質を持っていることから、人の住みやすさの優先順位からすると最後に手の付けられる土地となり、その結果として、広い敷地を必要とする施設、大規模な集合住宅、あるいは運動場、調節池などに利用されています。

石神井川(手前)の脇の低地は防災上の調節池として利用されている

さて、地図からは田の記号が消え去り、経営耕地面積としての水田は今は無い、と書きましたが、実は、田無エリアにおいて、1か所だけ今も「田」の記号が地図上に示されている場所があります。
どこかと言いますと、そこは田無駅の北方にある「東大附属農場」内です。

東大附属農場内の田んぼ(地理院地図)

ここは、研究のための実験農場となっているので、稲の研究をするために地下水を汲み上げて田んぼを作っているということです。
この辺りは、地下に水が溜まる「宙水」が多く分布しているエリアとなっていますから、市の水道から水を供給するのではなく、地下から水を汲み上げる方が低コストで済みます。

田植えをする学生
地下から汲み上げた水を蓄える池
研究のために稲の多様な品種の苗があります

東大付属農場の水田は見たところ1町(≒1ha)ぐらいの広さですが、国土地理院の地図では、その土地利用までしっかりと地図上に表示しているのですね。

<参考>「田」の地図記号

「田」の地図記号は、地図ができた明治時代から何度かの変更を重ねてきているのですが、基本形は稲を刈り取った跡をデザイン化した記号になっています。
現在は昭和40年に改定したもので記号は1種類だけですが、例えば昭和30年には田を「乾田」、「湿田」、「沼田」と水の状態で細かく区分して表示していました。
時代を感じます。