青梅七福神をめぐる

今回は、新年に当たりおめでたい七福神めぐりを紹介します。

◎七福神とは

*寿老人-福禄寿から特に長寿を司る役割が分離されたとされている。寿老人は、福禄寿のような特異な姿ではなく、白髪白鬚の老人で、寿命を記した絵巻さげた杖と、難を払う扇子を持ち、1500年を経た玄鹿を連れている。

*福禄寿-中国道教の福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(長寿)の思想が日本に入って、仙人信仰などと融合して神格化された。

*布袋尊-中国の梁に実在した禅僧で名は、契此(かいし)という。太鼓腹を突き出した異体な風体で日用品の一切合切を入れた大きな袋を杖にくくりつけ、悠然と市中を闊歩しては、人々に喜捨を乞うたことから、「布袋」と呼ばれた。大漁、子宝のご利益があるとされている。

*恵比寿-釣竿をもって鯛を抱えたおめでたい姿の恵比寿は日本の福神の代表格で、商売繁盛にご利益があるといわれている。

*大黒天-大黒頭巾をかぶって大きな袋を肩にかけ、打出の小槌を携えて米俵の上に乗っている姿が馴染み深い姿ですが、財福を司る神様とされている。

*毘沙門天-頭に鳥形の冠をかぶって七宝の甲冑を身に着け右手に宝棒か槍を持ち、左手に宝塔をささげている。毘沙門天は、仏教の四天王のうち北方守護にあたる多聞天です。威光を身に備えさせるというご利益があるといわれている。

*弁財天-七福神の中の紅一点で、インド神話の河川の神、サラスパティーが原型とされている。芸妓、福財、知恵を授ける神として信仰されている。

★青梅七福神をめぐるコース順序

1.聞修院 →2.明白院 →3.地蔵院 →4.清宝院 →5.玉泉寺 →

6.宗健寺 →7.延命寺

七福神めぐり地図

今回めぐる七福神はJR青梅線青梅駅をスタートして聞修院を目指して歩く。青梅駅で下車し、改札口を出ると駅前ロータリーに出る。ロータリー右手セブンイレブンの路地を宮ノ平駅方面に向かって閑静な住宅地が続く中を歩くと「裏宿七兵衛通り」と書いてある看板が左側に見える。更に歩くと駅から5分程で小曽木街道に出る、そこがJR青梅線の高架橋、霧久保橋で右折して高架橋を越え、青梅坂トンネル(127m)を潜る。

*青梅坂トンネル(江戸時代、青梅宿と青梅の北隣の小曽木村黒沢とを結ぶ道路が「青梅坂」と呼ばれる峠でした。青梅宿で青梅縞が取引される市日の直前に成ると、黒沢方面の村々を巡り、そこで織られた反物を受け取ってくる「ツボ回り」と呼ばれる人々が足繁く通った峠道だった。青梅と黒沢を結ぶ要路であった青梅坂ですが、昭和52年(1977)青梅坂トンネルが開通した後は、この峠を歩いて通る人は居なくなった。)トンネルを出ると下り坂に成り30分程で左側にある聞修院に着く。(青梅駅から約2.3㎞ 約35分)

1.黒沢山聞修院は、黒沢三丁目にあり、本尊は禅宗では珍しい阿弥陀如来である。天文年間(1532~1555)の創立とされる。天寧寺三世霊隠宗源大和尚が開山であり、「聞思意修より三摩地に入る」(教えをいただき、思慮し、修業し得た智慧をもって悟りの地に入る)という宗門先哲の格言より寺号を選んだといわれる。開基は黒沢村の住人黒沢内蔵人と伝えられる。本尊は北条氏直の奉納といわれる。慶安2年(1649)徳川家光より阿弥陀堂領として10石の朱印状が下付される。天保11年(1840)11月6日火災にかかり、後、嘉永3年(1850)光雲大竜の代に再建された。境内にある板碑(市有形文化財)は天文12年(1543)道立で阿弥陀の線彫りで風化が激しいので現在は堂内に保管されている。また、七福神の一人である寿老人像を安置。

次は、明白院を目指して歩く。聞修院から小曽木街道を右に南へ向かって戻り青梅坂トンネルを潜ると、JR青梅線の線路を立体交差で越えて森下町の青梅街道に突き当たります。右折して歩くと、右側に「旧稲葉家住宅」*材木商・青梅縞の仲買で当時の青梅では有数の豪商だった(東京都指定有形民俗文化財)。があり、立ち寄って見るのも良い。隣の岡崎酒店敷地に明治から大正に掛けて、青梅-入間間に敷かれた中武馬車鉄道の駅が有った碑がある。

稲葉家住宅

中武馬車鉄道の碑

宮ノ平駅に向かって歩くと裏宿町に入り、右側に小さな公園がる、そこは裏宿七兵衛(江戸時代青梅に居た大泥棒「義賊?」)の屋敷跡といわれている。

七兵衛公園にある「裏宿七兵衛供養碑」

この先からの登り坂道を登り切るとJR宮ノ平駅だ。そこから下り坂に成り消防署を過ぎると右側にある「明白院」に着く。(聞修院から約3.7㎞ 約55分)

2.日向山明白院は、日向和田二丁目にあり、本尊は将軍地蔵菩薩である。天正年間(1573~91)天江東岳(海善寺七世)を開山とし、三田氏の遺臣野口刑部丞秀房を開基として開創された。延享元年(1744)堂字が再建され、大正年間に増改築され、併せて境内の整備が行われた。山門(市有形文化財)は楯の城(*宮ノ平駅北側に所在)にあった宇太夫屋敷の表門を移築したと伝えられる。門前のしだれ梅は見応えがある。七福神の一人である福禄寿像を安置。

山門(楯の城の表門を移築)

次は、地蔵院を目指して歩く。明白院を出て、青梅街道を右へ200m程歩くと五差路の信号があり、青梅街道を離れ左折して下るとそこは、多摩川に架かる和田橋(S40年3月竣工、長さ98m)である。渡り終えた所にある信号を左折して住宅街の中の道を歩き地蔵院をめざす。この辺は日当たりが悪く、昔は対岸の日向和田に対して日影和田といわれていた。(明白院から約2.5㎞ 約40分)

3.宝珠山地蔵院は、畑中二丁目にあり、本尊は地蔵菩薩である。創立は永正元年(1504)と伝えられ、開山は文明年間(1469~87)に貴安秀一禅師とされる。慶安2年(1649)徳川家光より寺領五石の朱印状が下付される。安永年間(1772~80)十二世桃源により現在の本堂建立。上棟の日、五羽の鶴が舞ったとの伝説があり「五鶴堂」の別名がある。境内に梅樹が多く、中でも宝珠梅(元臥龍梅と云う)は300年の古木といわれ市天然記念物に、また山門も古構を残しこれも市有形文化財に指定されている。七福神の一人布袋尊像を安置。

樹齢300年の宝珠梅の木

次は、清宝院を目指して歩く。地蔵院を出て、少し歩くと吉野街道(R411)に出る、左折して少し歩くと畑中一丁目信号がある。信号を左折した先が、多摩川に架かる万年橋(S49年11月竣工、長さ97m)で、橋を渡り、5分程歩くと左側にある清宝院に着く。(地蔵院から約1㎞ 約15分)

4.成田山清宝院は、大柳町1203にあり、寺伝では宇多天皇(867~931)の御代、寛朝僧正が金剛寺登山のさい立ち寄り開創されたと伝えられる。しかしその後は、幾度かの火災により記録は失われたが、本堂改修の折、参道の地下より鎌倉期前期と思われる素焼きの燈明皿等の破片が出土した。元禄年間(1688~1704)権大僧都教宝法印が再興し、中興一祖となり、安政年間(1855~60)に至り玄海・鎫(ばん)盛・憲道と三代にわたり再興することで、明治初頃(1868)ほぼ現状の姿になった。

本尊は、文政年間(1818~31)に成田山新勝寺の本尊を、京都の仏師中野法橋が心眼をこめて三尺三寸に模刻し、新勝寺第十一世、照獄僧正により開眼供養が執行され馬の背中に乗せて運び安置された霊験あらたかな立像不動明王である。七福神の一人恵比須像を安置。

次は、玉泉寺を目指して歩く。清宝院を出て、100m程戻り左折して釜の淵公園へと行く道路を下ると多摩川の河原に下り、青梅市の釜の淵駐車場に出る。そこには、「若鮎の像」がある。

*若鮎の像建設の由来(大正2年6月(1913)東京帝国大学教授・石川千代松博士は、青梅市大柳のこの地に琵琶湖で生育した小鮎数百匹尾を移植し、多摩川を遡上鮎のように大型鮎になるかの画期的実験を試み、それに成功した。それにより、全国河川に琵琶湖産稚鮎の放流をみるに至った。博士の功績をたたえると共に日本最初の放流地、奥多摩川大柳河原を記念するため、奥多摩漁業協同組合を中心とし、全国の同好者多数の浄財により若鮎の像が建てられた。)

若鮎の像

若鮎の像建設の由来碑

多摩川に架かる柳渕橋(S47年3月竣工、長さ103m)を渡り青梅市郷土博物館がある釜の淵公園に出る。公園を後に「かんぽの宿」へ行く坂道を上がると吉野街道(R411)に出る。左折して玉泉寺を目指してR411を歩く、調布橋の信号を過ぎ、次の下奥多摩橋の信号を目指して歩く。左側の青梅市立第二小学校を過ぎると下奥多摩橋の信号着く、左折して最初の信号(50m位)を右折して5分弱で左側にある玉泉寺に着く。(清宝院から約3㎞ 約45分)

5.金剛山玉泉寺は、長淵三丁目にあり、本尊は十一面観音菩薩である。建長5年(1253)の鎌倉建長寺建立から65年程後、文保年間(1317~8)建長寺十七世大古世源を開山として創立されたと伝えられる。天正16年(1588)北条氏直からの鐘借用状を蔵し、市有形文化財の指定を受けている。天正19年(1591)徳川家康より寺領三石の朱印状が下付される。江戸時代には、境内1300坪、釈迦堂、鐘楼を持ち、元禄5年(1692)鋳造の銅鐘が掛けられ、末寺17カ寺を統べた本寺である。七福神の一人弁財天像を安置。

弁財天堂

次は、宗建寺を目指して歩く。玉泉寺を出て、多摩川に架かる下奥多摩橋(S48年3月竣工、長さ90m)を渡り、最初の信号を左折して住宅街の中の道を調布橋目指す。玉泉寺から20分程で、下奥多摩橋の一つ上流の調布橋(H5年3月竣工、長さ103m)に着く。橋のたもとに「雪おんな縁の地」の碑がある。小泉八雲は、この地域出身の使用人親子から「雪女」の話を聞き「雪女」の小説を書いたといわれている。*(雪女の話は、昔、橋が無く渡し船が有った頃、渡し場に有ったとされる渡し小屋で一夜を過ごした二人の木こりの体験から始まる)。

調布橋のたもとにある「雪おんな縁の地」の碑

調布橋の道を渡り、更に住宅街の中の道を宗建寺に向かって歩くと青梅街道の千ヶ瀬バイパスに出ます。信号を渡り、坂道(多摩川の崖線)を上る途中の左側が宗建寺だ。調布橋から10分程で着く。(玉泉寺から約2㎞ 約30分)

6.仙桃山宗建寺は、千ヶ瀬六丁目にあり、本尊は毘沙門天である。開山の一蓮社尭誉宗公上人は、宝徳2年(1450)3月示寂と伝えられる。初めは浄土真宗であり、二世覚林の代に改宗し、玉泉寺の末寺となった。慶安2年(1649)徳川家光より寺領一石七斗の朱印状を下付される。境内に青梅の生んだ文人根岸掠字の墓があり、「暁の波に別るる千鳥かな」と辞世が刻まれ、掠字没後は青梅の文芸の中心人物となった従弟根岸典則の墓(都旧跡)もある。他に俊足の賊・裏宿七兵衛の首塚などもある。本尊毘沙門天は七福神詣での一つでもある。

毘沙門天像

*根岸典則・・(1758~1832)江戸時代後期、文化・文政期の国文学者で歌人。青梅縞商で町年寄を務めていた嘉右衛門の子として青梅に生まれた。

*裏宿七兵衛・・享保・文政期(1716~1740)青梅に居た実在の人物で、義侠心ある盗賊?で、困窮する庶民の救世主であったとされる。中里介山著・大菩薩峠が発刊されて以来、人間味ある生涯は世人の注目するところとなった。

次は、最後の延命寺を目指すが隣で、宗建寺の境内を出て路地を挟んで延命寺がある。(宗建寺から50m 約1分)

7.竜光山能満院延命寺は、住江町にあり、本尊は釈迦如来である。創立は当時の銅製棟札(市有形文化財)によれば応安2年(1369)6月、開山は季竜元筍である。尚、この棟札は「青梅」の地名が書かれた最も古い資料である。季竜は泉州堺(大阪府堺市)の人で、出身地の氏神を町内稲荷山に勧請し、寺門の守護神とした。これが今の住吉神社である。明治16年(1882)、群馬県太田市の大光院から呑竜上人の分影を迎えた境内の呑竜堂は「呑竜さま」と市民に親しまれている。七福神の一人である大黒天像を安置。

七福神の御朱印

この寺で、青梅七福神めぐりは終了で、次は、JR青梅駅を目指す。

延命寺を出て、坂道を登るとそこは青梅街道である。青梅街道を左折して3分弱で青梅駅入り口の信号があり、右奥がJR青梅駅です。(延命寺から約0.4㎞ 約5分)

七福神めぐりコース 15.4㎞(3時間46分)+お参りの時間

皆様も今年の開運を願って「青梅七福神めぐり」をしてみて下さい。

*参考資料

◎青梅市史

◎青梅市観光協会HP

◎インターネットの各種情報