武蔵野市に5万人を収容できる野球場があった

武蔵野市の空撮写真を眺めてみると、都立武蔵野中央公園の東隣に、都営住宅などを間に挟んで円を描くように敷設された道路とその道路に囲まれて立ち並ぶビル群が写っています。ビル群はUR都市機構の武蔵野緑町パークタウンで、約30棟の建物が立っています。
では、何故、円を描くような道路があって、それに囲まれるように建物が立っているのでしょう。

都立武蔵野中央公園と武蔵野緑町パークタウンの空撮写真

中島飛行機武蔵製作所
先のブログで、太平洋戦争中、武蔵野市に中島飛行機武蔵製作所という東洋一を誇る航空機エンジン工場があったことを紹介しました。
中島飛行機武蔵製作所には、東工場(武蔵野製作所)と西工場(多摩製作所)があって、共に米軍の空爆により大きな被害を受けました。
西工場の跡地
戦後、西工場の跡地は国に物納されて駐留米軍の住宅、グリーンパークが建設されましたが、その後返還されて広い原っぱが特徴の都立武蔵野中央公園となり、今日多くの人々に親しまれています。
東工場の跡地
一方、東工場の跡地は民間に払い下げられて、松前重義を社長(役員に武者小路実篤や徳川無声の名もある)とする武蔵野文化都市建設株式会社(後に株式会社東京グリーンパークに変更)が購入しました。戦後の荒廃した武蔵野を文化的に復興発展させる目的で設立した会社で、事業案がいくつか上がりましたが、国民に希望を与えるにはスポーツが良いという結論に至り、跡地の大半を利用して野球場建設に決定したということです。
完成した野球場がグリーンパーク野球場です。総工費1億円を投じて昭和24年(1949)建設開始、昭和26年に完成しました。球場の収容人数は5万人余りで、当時の後楽園球場を上回り、甲子園球場に匹敵する規模でした。

グリーンパーク野球場の全景 右奥の建物群は米軍住宅グリーンパーク


グリーンパーク野球場の開園と評判
開園した昭和26年4月に東京六大学の試合が行われ、同年5月にプロ野球、国鉄対名古屋、巨人対名古屋の変則ダブルヘッダーが開催されています。
ところが、この球場は、風が吹くと砂塵が舞って選手、観客から不評を買い、しかも都心から遠く交通が不便なため観客の入りが悪く、行われたプロ野球の試合は12試合のみ、わずか1年間の使用で終わってしまいました。
翌、昭和27年米軍に接収されていた神宮球場が解除されたことや、川崎球場がオープンしたことも閉園の要因となったようです。

グリーンパーク野球場のプロ野球開幕試合、国鉄対名古屋 昭和26年5月5日


グリーンパーク野球場のその後
グリンパーク野球場は、その後、日本住宅公団(後のUR都市機構)に買収されて解体され、昭和33年(1958)、跡地に約30棟からなる公団住宅(武蔵野緑町パークタウン)が建てられました。
円を描くような道路は何か。お分かりいただけたでしょうか。円を描く道路は球場に沿って作られた外周道路だったのですね。外周道路をそのまま残しておいて、球場跡地に公団住宅を建てたのでした。外周道路を挟んで、西隣りには都営住宅などが建てられました。
静かな佇まいを見せる住宅街に、かつて砂塵に悩まされた野球場があったことを想像するのには難しいものがありますが、時折、外周道路に散った落ち葉が、強い風にあおられて舞う風情に往時を偲ぶことができるような気がします。

時折、落ち葉が舞う外周道路

参考資料
*武蔵野市百年史 記述編2
*都立武蔵野中央公園の歴史
*地理院地図