武蔵国分寺種赤米のはなし(1)

はじめに

いま国分寺でブームになっている、20年前に発見され国内4種めの非改良種の赤米であることが分かった武蔵国分寺種赤米のお話しをします。今回は前段階としてわたしの幼少時のお話しからです。

日光の材木商が猿橋へ

わたしの母親の実家はむかし栃木県日光で東照宮の造営にも参加したと言われていた材木商を営んでいました。明治になって甲武鉄道(今の中央線)へ線路の枕木を納める仕事のため山梨県猿橋駅前へ出張所を開設しました。その後、甲武鉄道が開通し仕事が終わると家族はみんな日光へ帰りましたが、三男だけは土地の娘と良い仲になり猿橋に住み着きました。

目の赤いウサギ

わたしは幼少のころ夏休みになると母親とその家へ避暑を兼ねて帰省しました。もともとが駅前の出張所ですのでボロボロで畳が畝っているようなボロ家でありました。ただ元々馬小屋だった奥屋が倉庫になっていて農具の片隅でウサギを飼っていました。目の赤い白いウサギでした。

乳が出る草

えさの葉っぱを採ってくるのは子供の仕事でわたしも採りにいきました。ポキッと折ると白い乳が出てくる大きめの草でした。子供のころの記憶なので、この乳草の名前は覚えていません。どなたかご存知でしたら教えてくれると嬉しいです。

美味しいすき焼き

そんな小学生のわたしも旧盆の時期が来ると帰省は終わり東京から父親が迎えに来ました。帰る前の日は豪華なすき焼きです。昼間から家族はそわそわ忙しない感じで、わたしも子供ながら大人たちの興奮を感じとってなんだか楽しくなりました。お肉をたらふく食べて寝つきました。

白ウサギを飼う

ところが翌日、白ウサギが二匹居ないことに気がつきました。そうです、昨晩にお腹いっぱい食べたすき焼きは、毎日乳草を採ってきてあげていた白ウサギだったのです。なんという事でしょう。大泣きするわたしをなだめるために、餌やりは必ず子供がやると言う約束で、白ウサギを一羽だけ東京(と言っても当時見渡す限り林の国分寺ですが)へもらっていくことになりました。

曲がり松さん

大泣きしてもらってきた白ウサギですが子供に毎日の餌やりが出来る訳もなく、困った父親は仕方なく近所で屋号が「曲がり松」さんという農家さんへ白ウサギを預けることにしました。ちなみに、この曲がり松さんの屋号は江戸時代から恋ヶ窪では有名な傾城松の一本が由来になっていました。(故鈴木四郎さん宅にあった一葉松も傾城松のうちの一本です。私説ですが)

変わり者の曲がり松さん

その曲がり松さんという農家さんは独身の男兄弟三人で暮していました。とにかく変わり者で近所との関わりも持たず、高くて厚いコンクリートの塀の中で、カムイ外伝に出てくる百姓一揆を起こすような、まるで江戸時代の百姓と同じような生活をしていました。農作業も耕運機などは使わずに鍬一本で耕したり、肥料も人糞を天秤のように担いで運ぶので臭い臭いと子供たちから揶揄われたりもしましたが、逆に子供が畑に入って遊んでいるのを見つけるとピカピカに研いだ鎌を振りかざして追っかけて来るような恐い人たちでもありました。

恐い敷地へ入る

近所の農家さんともお付き合いのない曲がり松さんでしたが、父の仕事のお客さんだった関係で、わたしはウサギを見に何度か曲がり松さんの家へ入りました。きっと小学生であの家の敷地に入ったのはわたしだけでしょう。

武蔵国分寺種赤米

こんな変わり者の農家さんだったからこそ、曲がり松さんが全国で四例めとなる非改良種である武蔵国分寺種赤米を作ってこれたのかも知れませんね。

『武蔵国分寺種赤米のはなし(1)』終わり

武蔵国分寺種赤米の稲穂

武蔵国分寺種赤米の稲穂(芒が長く赤黒い)